歌は世につれ世は歌につれ、アイドルで変われるヤツもいれば時間がかかるやつもいるパパラ宿で、孤独な少女が一つの答えにたどり着く。
地獄ミミ子委員長、旅立ちのアイドルタイムプリパラ第16話です。
複雑な過去を匂わせてきた委員長を掘り下げつつ、ババリア校長からの愛を受け取ってアイドルコンビが走り回り、心の扉は少し開くけども一気に全てが解決するわけではない。
なかなか不思議な味付けの話でしたが、むしろ一気に決着をつけなかったことでネタ万能主義の危うさを回避し、キャラクターの傷つきやすさを大事にした展開になったと思います。
いつか必ず来るだろう委員長の帰還とアイドルデビューを心待ちにしたくなる、帰還のための旅立ち回でした。


今回は結構ヘンテコな回で、ネタで突っ走りつつ結末はビターで、でも何も変わらなかったわけではないという、不思議なバランスに仕上がっています。
これはゆい&らぁら側の振る舞いと、ミミ子&ババリア校長が背負うものの温度差に誠実だった結果かな、と思う。
アイドルたちは『プリパラは最高、夢はなんでも叶う!』という自分たちの理念で突っ走り続けるんだけども、ミミ子にとって『アイドル』というのはかつて捨てた夢であり、素直な自分自身であり、失ってしまった両親であり、バカにされ傷ついた思い出もある。
ミミ子が抱え込むシリアスなものに向き合えるほど、アイドルたちと強い交流があったわけでも、アイドル側がミミ子に寄り添ったわけではない以上、今回一回で全てが解決してしまうのは嘘にしかならない。
それが今回、地獄ミミ子の物語を結論保留のまま旅立たせた、一つの理由かな、と思います。

人間誰しもが持っているシリアスな傷に説得力を持って向かい合うためには、ある程度の準備が必要になります。
プリパラは特にコメディのブレーキを一切踏まずに進めているため、ネタと勢いで全てが進んでしまう空間から、微細なロジックを積み上げ心の変化を切り取る空間への切り替えは、結構繊細にやっています。
アイドルタイムで言えば、第8話、第10話から第12話にかけてにのの個性を描写し、そこにゆいが切り込んでいったエピソード群は、ネタを交えつつだんだんとシリアス濃度を上げて、にのが『アイドルなんて下らないっす!』から『アイドルも面白いっす!』になるまでに説得力を積んできた。

ミミ子は怖い記号、不細工なパーツを寄せ集めて作られた『絵に描いたような敵役』だったわけで、ゆい達は彼女側の事情にずっと近寄ってきませんでした。
ミミ子も独自の思い出と価値観を持って行動していて、涙を流す一人の少女であると認識してしまえば、『絵に描いたような敵役』を続けるのは難しくなります。
なので、ババリア校長が第12話で女子プリパラの価値を認め、プリパラ迫害の構図が崩れるまでは踏み込むわけにもいかなかったわけです。


そういう状況から、たった一話でミミ子のすべてを理解し、スムーズに心の歪みを受け止めてあげられる関係を、ゆい達は造れるのか。
製作者はこれが『出来ない』と判断したからこそ、ミミコはアイドルにはならず、自分を見つめ直すために旅立っていきます。
先週みちると向かい合うときにも見えた、どう頑張っても自分のエゴイズムの範囲から出れない、アイドルタイムの限界点。
それは今回も健在で、ゆい達は自分たちにとっての価値である『アイドル』『夢』をミミ子に押し付けはしても、それが本当にミミ子にとっての幸福になるかを考える余裕……人格的成熟度は持っていないわけです。
すごく素朴に『かわいそうな子は助けたい』という優しさはあるし、自分たちの好きなプリパラを認めてもらいたいという欲望もあるのだけども、自分を殺してでも誰かの傷に向かい合うアンチ・エゴイズムを獲得できないというのが、現状のパパラ宿のルールなのだと思います。

ラストシーン、学園を去っていったミミ子の部屋を見て、ゆいらぁはとても寂しそうな表情をします。
これまで色々あったけども巧く困難を乗り越え、少しずつでも変化と成功をもたらしてきたはずの『二人のステージ』が、ミミ子に届いたのかわからないまま彼女は去っていってしまった。
そこで『届いた』と確信できるほど心理的視力が良くもなく、『届かなかった』と絶望してしまえるほど夢がないわけでもなく、凄く宙ぶらりんで人間的な場所に、二人はおいていかれたわけです。
こういう経験を積み重ねることで子供は大人に(否応なく)なっていくものだと思いますが、それを世界が許してくれるかは今後の展開次第です。

なにしろ、ジュルルとの死別を体験したらぁらは再び小学六年生となり、ゆいよりも目立ってはいけない前作主人公の枷に阻まれて、ミミ子の哀しさを理解出来なかったわけですから。
これがアイドルタイムではなく、らぁら主役の物語であったのなら、歌は届いてミミ子は『なりたい自分』を即座に受け入れ、アイドルになっていた気がします。
正解を直感し即座に行動できるらぁらの主人公力……ある種の『いい子』っぽさが、無印を強烈に牽引していたのは間違いないし、そうして経験と成長を積み重ねた主人公であれば、ミミ子の過去と痛みは見えるし、解ってしまえるものでもあった。

しかしこれはアイドルタイムであり、らぁらは主役ではありません。
無印を支配していた、とても大きなものに向かって常に上昇し、巨大な成功を積み上げて高みへと向かっていく物語のベクトルは、等身大の失敗と交流を積み重ね一歩ずつ地図を書き換えていくアイドルタイムのルールに変更されました。
それを背負う主人公・虹川ゆめもまた、虹色の瞳で他者性への認識を曇らせ、自分の夢しか追いかけない(追いかけられない)エゴイズムの限界点を刻み込まれながら、物語を走っている。
何もかもアイドルとステージだけが解決する物語を一旦極限化させ、ピークを迎えて別の方向を選んだ以上、今回のエピソードもまた、等身大のリミットの範囲内で終わるしかないわけです。

ここでらぁらがしゃしゃり出てきて、旧主人公の器のデカさを発揮しミミ子を受け止めてしまったら、
主役は交代しアイドルタイムは終わってしまう。
ゆいが持つ欠陥(であり、周囲を巻き込み変化させていく長所)たる『夢の色をしたエゴイズム』は、未だ本人にすら認識されていないし、世界もその限界を突きつけてはいない『これから』の物語要素。
ならば、夢川ゆいの素直な現状として、ゆいのステージは委員長にとっての完全な答えにはなり得ないし、らぁらも物分り良く、ゆいの人格成長にあったおバカさで物語を踊りきる。
露骨に『続く』だった今回のお話は、そういうシリーズ全体のトーンを反映したものだった気がします。


エゴイズムの限界点を見つめつつアイドルタイムがポジティブなのは、あくまで自分のためだけに動いているゆいの歌が、しかし届くものには届く瞬間を、ちゃんと描いていることです。
夢とは綺麗なだけではなく、身勝手で周囲の迷惑を顧みない自己満足でしかないのだけれども、溢れんばかりのエネルギーを持った夢は個人の範疇から溢れ出て、世界と他者を変えていく。
自分たちが引き起こした奇跡の価値にすら無自覚なまま、アイドル/子供は歌い、世界と自分自身を変えていく。
自分のためにやっているはずなのに、気づけば自分の外側に広がっていってしまう夢の不可思議な性質を、ニヒリズムを乗り越えるための強力な武器として描き続けているのは、アイドルタイムの強さだと思うわけです。

ミミ子をプリパラに誘ったのは、ラジカセを使ったあろまの謀略です。
彼女もワガママ小悪魔として独善的に振る舞いつつ、『我がプリパラは誰も排除したりはしない! だからお前もプリパラに来い!』と押し付けてくる。
公平性が一つの価値だからとか、守られるべき社会善だからとかの視点一切抜きで、あろまは『ただ、自分がしたいから』オープンな世界を信じ、強制すらする。
それがエゴイズムの中で足踏みしていたミミ子を強引に新しい世界に連れてきて、本来の自分と対話するチャンスを作ったりもします。

ミミ子の過去はネタを交えつつ、過剰にセンセーショナルにならないように注意しつつ語られていきます。
アイドルが好きで、夢に向かって真っ直ぐ進もうとしたら、信じていた友達にバカにされてしまった。
凄くありきたりで、だからこそ誰もが体験しうる挫折を核にして、ミミ子の自閉は加速していきます。
優しかった両親が学校にたどり着いたときにはいないことの理由は、エピソードの中では語られませんが、その喪失が彼女を頑なにしていったのは間違いないと思います。

新たなる母として体重を預けていたババリアも、急に変節して自分を裏切った。
それはミミ子の思い込みなんですが、自分の容姿を否定されたトラウマとか、どれだけ優しくされても埋まらない両親不在の寂しさとかで追い込まれていた彼女にとって、ババリアの変節はあまりに決定的だったのでしょう。
自分がアイドルを愛していた事実は、父母とともにあった幸せな過去と結びついていて、思い出せばその喪失を否応なく思いでしまう。
だから楽しかった記憶を消し去って、思い出さないようにしながら、地獄ミミ子はなんとか生き延びてきたわけです。
無論、自己の存在を否定された思い出に紐付いているのも、大きな理由でしょう。

そういう状況でも『地獄』という名字にこだわり、それを『良いものなのだ』と信じて行動しているのも、健気やら痛ましいやらだと感じました。
それはミミコにとって最後に残った両親との繋がりであり、他人が何をどう言おうと守りきらなければいけない聖域なわけです。
ただ『地獄っぽいから』というだけであろまやみちるに共感し、小さな期待をかけるほどに、地獄ミミ子が『地獄』という姓を持ち続けることには意味があった。
ラジカセで釣られるのは一見ネタなんですけども、そこに『地獄』を感じたからこそタブーに踏み込んでしまったと考えれば、ちょっと笑えないくらいに切実で、ミミ子っぽいなぁと思いました。

そういう状況でも、ミミ子は自分を受け止めてくれたババリア校長には体重を預けていました。
『女の子のプリパラ禁止!』という行動に出たのが、当時のババリアが掲げていた価値観に追従することで『お母さんを喜ばせたかった。お母さんと同じ考えを、自分も持っているのだと示したかった』のだとしたら、第12話で『アイドル最高!』という価値観を補強するように開眼したババリアの変化も、他者を見ないエゴイズムの発露になってしまう。

凄く追い込まれた状況の中で、それでも自分を守って愛してくれる人のために、自分ができることを不器用に差し出す。
ネタでしかなかった委員長の取り締まりは、とても子供らしくて純粋な……そして間違ったプレゼントだったのでしょう。
世界のルールが変わり、それに気づけない(何しろ耳を閉ざしているので)委員長の行動は、教室という社会の中で異質化し、彼女はどんどん孤独になっていきます。
ゆいが世界で一番大事なものと定める『夢』に素直になれず、それを広げる活動が自覚なく追い込んでいってしまう存在が、世界にはあること。
それはゆい達が努力で獲得したプリパラ宣教の影であり、絶対に切り捨ててはいけないリスクなわけです。

今回ゆい達は、ずーっと自分の価値観を見つめ続けます。
楽しくて、夢いっぱいで、笑いに満ちた元気で明るい世界。
それだけでは救いきれなかったからこそ、問題の根本的解決は『次』に回され、ミミ子は学園を去っていくわけですが、ゆいは己の失敗を否定せず、かと言って肯定もせず、膝を抱えて立ちすくむ。
その言葉にならない、してはいけない逡巡こそが、ゆいをより善い存在に変化させていくだろうし、その結果としてより良いアイドルにもなれるのでしょう。
じわじわ一歩ずつ変わっていくのは、何もパパラ宿の発達やステージの客入りだけではない、ということですね。


ゆいの現状ではミミ子のシリアスさに踏み込めない以上、ミミ子は自分自身で自分のシリアスさと向かい合うことになります。
ゆい達が押し付けてくる『アイドルの素晴らしさ』が、実は自分の中で強い意味を持っていたこと。
それは同時に挫折と痛みの記憶の中にあり、失ってしまって帰ってこないものに繋がっていて、それと向かい合うには時間がいること。
アホばっかやってるアイドルに自分を押し付けるのではなく、自分で自分を引き受ける形で、ミミ子は自分を開放していきます。
結局全ての答えは自分の中にあって、それを見つけるのはいつでも自分なのでしょう。
しかしそのためには、自分の中に響いている音だけではなく、時には雑音ともなる外部の音に耳を澄ますことも大切……というのが、ミミ子の聴力キャラをネタっぽく転がしながら、凄い情報を込めて今回叩きつけられます。

ミミ子最大のキャラ属性である『耳≒聴力』は今回すごく象徴的に使われていて、過剰に暴走させることで社会から孤立させる凶器にもなり、『アイドル』という未来に繋がる長所だと匂わされ、『他人の気持ちを聞く』という本来的な機能を回復させたりもします。
『個人の特徴は長所にも短所にもなり得る。でも、自分自身でもあるそれを捨てることは出来ない』という視線は、無印からずっと維持されているものであり、ミミ子の『聴力』の描き方も長短陰影、両面を含めた描き方でした。
『いい歌が歌える、リズム感がある、音程を正確に取れる』という強さを今回、ミミコはステージ上で発揮することなかったですが、その予定がないならここで強調する必要もないでしょう。
帰還した彼女が、その特徴を活かした良いステージをやってくれるととても良いなぁと、僕は期待しています。

ミミコはルトヴィコ療法めいた強制でステージを見て、記憶の封印を解き、かつてステージに夢見た想いを回復させます。
それは自分自身で自分自身をケアする行動ですが、同時に"ブランニュー・ハピネス!"という外部からの刺激がなければ生まれない変化でもあります。
ババリア校長に依頼されなければ、わざわざ委員長にまとわり付くこともなかったゆいとらぁらを見ても、パパラ宿では外部との接触と刺激があって初めて、変化が生まれるわけです。
ここら辺は、ゆいのエゴイズムが巻き起こしている変化を、別の形で描いているといえるでしょう。

人間は結局孤独で、自分で自分の面倒を見みるしかないわけですが、同時に耳を閉ざして自閉してしまえば、変化の可能性すらなく坂を下っていくだけです。
致命的な結論に辿り着く前に道を変えるためには、ある種のおせっかい……エゴイスティックな他者愛を身勝手に叩きつけて、変化を促す必要がある。
そういう形でしか人間と人間が関われない以上、その不純さや不完全さを嘆くよりも、起こりうる変化を寿ぎ、少しでも良くなっていく可能性に目を開いていきたい。
ミミ子のセルフケアーと、それを生み出す諸要因に関しては、そういうメッセージを感じました。

ミミ子はパルプスで、思い出のあか巻きを口にします。
それは封じていた記憶と和解した証明であり、父母の喪失、容姿をバカにされた傷との融和、あるいはアイドルへのあこがれの肯定なのでしょう。
そういう脆さも引っくるめて、ミミ子の全部を受け入れるように、ババリア校長が幼いミミ子にあか巻を差し出していたシーンは、異常に胸に突き刺さりました。
まだ完全にはたどり着いていませんが、答えは自分の中に、あるいは自分が歩いてきた過去の中にあったことに気づけたのだから、ババリア校長の思いもまた、良い結論にたどり着けると思っています。
過去のミミ子の部屋に、ババリア校長の部屋に飾ってあったのと似た、しかしバラバラに砕けてしまった『アボカドのジグソーパズル』があったのは、彼女たちの関係の崩壊と再生を暗示していて、凄くプリパラらしい表現だと思いました。

プリパラらしい、と言えば、無遠慮な言語の暴力でミミ子を捻じ曲げた二人の子供を直接的にどうこうして話が収まらないのは、凄くプリパラらしかったです。
まぁ委員長の旅立ちが既定路線だから、直接的決着を先送りしたってのもあるんでしょうが、そういう『外部』をどれだけいじり倒した所で、傷つき変質した自分自身は癒やされないのだと、作品が考えたからでもあるでしょう。
時間を巻き戻して原因を殴り飛ばすよりも、現在目の前にある関係性と精神の中で、己をどう扱うか、変えていくかによって傷を乗り越えていく。
三期まで引っくるめて向かい合った、ひびきのトラウマの扱いとも共通するスタンスだと感じました。
まぁそっち掘り下げる尺もねぇしな!

賢いミミ子が自分で自分を変える形で変化はあり、結論は出なくてもそこへの第一歩は踏み出されました。
ゆい達は変化を自覚的に引き起こしたわけではないし、その結果に自覚的でもない。
でもだからといって、自分を守るために自分を閉ざした女の子が世界に耳を開き、過去と和解した奇跡の価値が下がるわけではない。
たとえ愚かでも身勝手でも、真実夢を追い求める一種の狂気は他者に伝染し、変化を促します。
それは『いい子』のやり方じゃないけども、でもやっぱり人間の真実の一つで、とても大きな意味のあることだったのではないかと、憑き物が落ちたようなミミ子の表情を見て僕は思いました。


こうして、ミミ子は旅立っていきました。
両親の喪失、過去受けた心ない仕打ち、孤独とすれ違い、裏切りと思い込み。
今のパパラ宿、今のゆいが受け止め解決するにはあまりにも重たく、シリアスで複雑な要素を前に、あえて結論に飛びつかず、時間を置く選択。
僕にとってそれは、凄く誠実な対応だなと思えるものでした。
『まぁこれまでのキャラ描写、話のスケールと描いてきたテーマの方向考えると、こうなるよね』という結論にちゃんと落として、クッションをかけたというか。

いつか必ず、ミミ子は帰ってきます。
その時、ミミ子のシリアスさを受け止めきれず立ちすくんだゆいが、他人の重たさを背負えるだけのタフな優しさを獲得しているのか。
あるいはそういうもの全てを背負えるくらいに巨大な、アイドルとしての存在感を手に入れているのか。
今回あえて選ばれた宙ぶらりんな結末は、主人公が背負った大事な宿題だと思います。
嘘のない、とても良い出題だったと思うので、いつか来るだろう回答もまた誠実で、面白く、ネタと狂気にまみれたアイドルタイムプリパラらしいものだったら、僕はとっても嬉しいです。
来週も楽しみですね。

追記 人間、真中らぁら